お墓

お墓

40を過ぎ墓を買った。墓を買った経緯をメモ。

もともと祖父から引き継いだ墓が大阪にあった。

墓参りには、祖父母が他界してから毎年欠かさず行っていたが、思えば墓参りをするようになったのは、昔に起業して数年経ちなんとか食っていける道筋が経った20代。

不思議なもので、当時僅か手取り20万そこらの私が数万円と丸1日をかけて、大阪まで墓参りに行くようになったものだから面白い。

墓参りたるもの

そもそも、墓参りと言うのは何だろうか?

先祖を敬い自分の生に感謝することだろうか。他界した近親者への報告・相談だろうか。

大阪へ墓参りに行くには、新幹線で2時間半かけて行ってから、レンタカーを借りて墓まで行くとトータルで4時間ぐらいかかる。

道中、仕事のことや家族のことなどを考えるが、合間合間に墓参りとは何ぞや?と何年も何年も毎年考えたものだった。

途中で「墓なんてあっても金がかかるだけ」「後に残された者が大変」「家から近いと楽なのに非効率」「外注に出して墓掃除だけしてもらおうか」「墓参りなど無意味」など、一通りの一般的な見解も考えたが全て違った。1秒で「それは違う(着目するポイントが違う)」と分かる。

何年も考えた末に、これに関しても人によって答えが違うのだろうが、こういった事を考えること自体が墓参りなのだろうと結論に至った。

このご時世、社会の歯車として資本主義経済の元、稼がなければならない。そういった生活をずっと送っていくと、人間がまさに歯車になってしまう。

シリコンバレーやテック界隈では、もはや定番と言うか過去の話にもなっているが、ヨガや瞑想・マインドフルネスが生産性を上げ、効率を上げ、より人生が豊かになる為に必要だと科学的に認知されてきた。よりよい歯車になる為に。

墓参りのような一見、非効率的で生産性が無いように見え、まるで無意味な時間の消費なのだがその先にあるもの。つまり、非効率的な墓参りは、意外にも瞑想・マインドフルネスに近いものがあるものだと、後々気付いたものだった。

もっと端的に言えば、日常や普段の喧騒から離れ、フラットな状態で目的を決めず、頭に出てきたものと向き合う作業と言えるかもしれない。日本人は、宗教観が乏しいが墓は死人を埋めておく場所と言う定義のみで、存続させるには無理がある。

これは、墓参りの道中や帰り道、草むしりや墓を洗ったりする作業も同じ。とりあえず無心で作業する。

そして、綺麗になったお墓を前に線香をあげ、先祖にお礼と報告をし、また1年宜しくと手を合わせる。

墓参りとは?自分にとっては、経営と家族を回す為に1年で重要なルーティンであり、宗教的な儀式であったと言えるかもしれない。

お墓の難易度を下げる

前述した通り、何年もかかって一定の墓参りたるものについて腹落ちした。しかしだ。誰でもお墓と言うコンテンツを自身の人生に役に立つよう変換するのは難しいだろう。

もしも、私の後に続く者がいたとしても、墓に対する解釈が同じものであるとは限らない。

よくビジネス界隈で言われる「平社員は、今日明日。中堅社員は、数カ月。経営者は10年、30年」などと、どこまで考えるかをたとえ話でする。

40で墓を買うのは早すぎるだろうか?

この世で100%確実なことは、自分が死ぬと言うこと。そして、みんな死ぬと言うこと。

自分の死後を確実にコントロールすることは出来ないが、墓に関してはコントロールできる、はず。そして、誰かの為に難易度を下げておく必要があると感じた。余計なお世話かもしれないが。

直近、母方の祖母が他界した。このコロナ禍で本人の希望と親族の意向で、生前・死後ともに会うことはできなかった。

この時、こう感じた。「本人の意向もある。身内の意向もある。でも、最後ぐらい一目会いたかった。」と。この件については、個人的に悔しさがある。

生きてようが死んでいようが会えない人間って何なんだろう。会えない家族って何なのだろう。と。コロナのせいではない。人間のせいなのだ。

電話?テレビ電話?それでもよかったのかもしれない。が、最後だけでもと思ったが難しかった。

個人的に、身内の死は、少なからず残されたものに影響を与える。それを良いものに変えていくことで、人は劇的に成長すると信じている。

人を大きく変える1つの要素が身内の死であると。

数か月後に祖母や祖父が眠る九州の墓へ行った。

祖父母の子供ももうおじいさんだが東京に住んでいる。墓をどうするかは、このおじさん次第。東京からは、ものすごく遠いし、小高い丘の寺にあり行くだけで大変。

正直、もう2度と来ることは無いだろうとも思った。

遠いこともあるが、やはり関係性なのだろう。母方と言うこともあり、義務感もない。世話になったのだろうが、自分以上に難しい人たちだった・・・。

腹に銃弾を受けた傷があり、戦争を生き抜き、大手船舶会社の役員まで務めた昭和のビジネスマン。九州育ちの専業主婦。どっちも濃かった。

そんなこともあり、関係性はさておき、「出来る限り人に嫌な感情を抱かせない墓」つまり、難易度を下げた墓で色々と考えられる墓がいいだろうと感じた。

墓縛りだが、樹木葬や散骨ありきでは考えなかった。母方の祖母の件もあり、人によって感じがヨイと思えることは、残されたものでそれぞれ違うのだ。

なので、散骨縛りにしてしまうと「散骨は嫌だ」と残されたものが言っても、それが実行されてしまう。

逆に「散骨してしまわないとイヤだ」。と言う人は、なかなか少ないのではないだろうか。

もう1つの要素としては、やはり無縁仏化の有無。今の大阪の墓は、私が年間費用3万円を払い続けないと、墓が撤去され無縁仏として破棄、格納される。

それはそれでいいのかもしれないが、なんだか人によっては気分が悪し、何より自分の代でそうなってしまうことに気後れしてしまう。

そういった心配が無いように、十数年経過して身内が誰もいなくなったら、合同葬へ移行してくれるようなところだと、私も安心だし、もし残された者がいても時間が経てば、自動で墓仕舞いをしっかりしてくれれば手間もかからず安心。

こうして体裁的にぶつかる課題。一般的に見えやすいお墓の面。これは、ある程度、綺麗にし難易度を下げることで、残された者が考えられる可能性を上げられるはずだと思う次第。

個人的なお墓への条件

あとは、ペット。これが必須だった為に絞り込みが容易だった。

ペットと一緒に入れる墓地は、まだまだ少ない。日本では、既に子供の数よりペットの数のほうが増えており、今後、ペットと入れる墓地は増えるだろう。

仏教も動物の供養までするようになったのだから、面白い。

上記を踏まえながら、個人の希望としては、

  • 関東
  • 宗派問わず
  • 期限付き墓仕舞い
  • ペット可
  • 従来型墓石不要
  • 引越受け入れ可
  • 年会費が休め
  • 災害が少ないエリア
  • 戦争でミサイルが飛んでこないエリア
  • 自然を意識してある墓地

中には、笑ってしまう条件もあるがウクライナにコロナの事実から関東大震災、富士山噴火、台湾有事の可能性を含めると立地は、安全第一になってしまう。

墓石・・・今の大阪には、墓石が5基ある。まさに先祖代々・・・。従来型のお墓は、石がどうにも個人的に合わない。プレートで十分。もしかしたら、墓参りの掃除で深層心理でウンザリしているのかもしれないが・・。

そして、何かのきっかけで無縁仏になるのは、やはり気になる種が残ってしまう。なので、一定期間経過後にしっかり墓仕舞いしてくれるとこが大事。無縁仏にされてしまうのは、ちょっと気が引ける。

お墓が見つかる

探して数カ月で個人的な希望を全て叶える墓地が見つかったので、ここまで読んで頂いた方にご紹介したい。

曹洞宗 真光寺 緑の会

で検索してみて欲しい。千葉にある墓地で既に4区画目が解放されている。

と、宗教や宗派、住職に関しては、全く知らないので気になる方は、調べてみてほしい。

事務局の方に聞くと30代の元気な方でも買っていると聞いた。

墓の話で下世話な話だが、本会員は80万円で墓地・墓牌・33回忌までの供養・納骨など一切が含まれている。

正直、今の80万円が死ぬ時に幾らになっているかと考えてしまうが、そもそも都合よく墓地が空いていたりするか分からないし、誰かが入ったあとの墓地も少々気になる。

そう考えると1坪80万円で1名。他の家族は、1名40万円になっており1区画年間5,000円の経費がかかるが、死んだらここに入ると言う未来の確定事項は、自分の安心感もあるが残された者への手続き的な簡略化と安心感につながる可能性もある。

「死んでから考えてもらえばいいよ」

そういうタイプも多くいるし、むしろそっちのほうが多数派のはず。

死生観に関する本からスティーブジョブズの本や末期患者の本のジャンルを数十冊読んだ結果。やはり、死に際に気になる要素の1つが葬儀やお墓なのだそう。

人間誰しもサラリーマンをやらなければ、サラリーマンの気持ちは分からないだろうし。起業家をやってみなければ、起業家の気持ちや社長の気持ちは分からない。結婚しなければ分からないこともあるだろうし、子供がいないと分からないこともある。

それと同じように死ぬ間際になって後悔することと言うのは、やはり死ぬ間際にならないと分からない・・・では困るのだ。

お墓と家族

今後、大阪の墓を墓仕舞いし、千葉の墓へ移動すると墓に関してはひと段落。合計で300万ぐらいかかりそうだが、先祖からもらった分を充てると考えれば、プラマイゼロ。

死ぬために生きると言う概念も変だが、やはり死ぬ間際に「最高の人生だった」と思いたいし、それがいつ訪れたとしてもそう思えるように生きるのが、きっとベストなはず。

絶対に誰しも死ぬのだから。墓と葬儀に関して、家族と話す機会があっても良いものだと思う。意見を交わすだけでいいのだ。何日もかからない。

そこで金融・資本主義経済下の概念が出てくるはずだ。お金がかかる。時間がかかる。手間だ。非効率だ。生産性がない。今考えるべきことじゃない。などなど。おそらく多くの日本人が苦手なジャンルの話だろう。

お墓の話をしっかり歯車にならずに話し合える人間同士と言うのは、それぞれが出来上がっている証拠でもある。ようは、そこまで自分で考えた経験が少しでもあると言うことだ。

結局のところ、家族としても教育としても死生観として、家族で話題に出すには、お墓が最良のコンテンツなのだ。

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